令和5年 伊東市富戸 三島神社例大祭 神輿渡御
2023年10月29日(日) 静岡県伊東市富戸に鎮座する三島神社(相殿・若宮八幡神社)の例大祭本祭での神輿渡御を見学してきました。

三島神社と若宮八幡神社の幟が立てられています。

御霊遷し前の宮神輿


例大祭の式典が拝殿内で行われ、鹿島踊りや神楽「剣の舞」などが奉納された後神輿に御霊を遷されお下り(宮出し)が始まります。ここでも担ぎ手は紙を口に銜えて無言で担ぎます。伊東市内ではこのように紙を銜えながら担ぐとこが多いようです。

境内の最下段の広場に神輿が出ると鳥居に向かって走りながら進みますが、ここでは周りの者が鳥居を潜らせないように止めます。神輿が鳥居を出ると祭りが終わるとの昔からの言い伝えがあるようで、出たい神輿と出させない里人の攻防が30分以上続きます。

砂埃を上げて突進する神輿
しゃぎりが演奏されている中で暴れ回る神輿は、鳥居から逸れて突進する場面も多々ありました。
神輿と里人の意気が一致した時に神輿はようやく鳥居を潜れるとのことで、30分以上の攻防の末鳥居を潜って龍宮神社へと向かいます。

龍宮神社は三島神社から海方面へ向かった先にあり、この境内にある「産衣石」の上に神輿は安置されます。
この産衣石は次の謂れがあります(案内板記載より抜粋)
「永暦1年(1160) 伊豆に流された源頼朝は伊東祐親の三女・八重姫と人目を忍ぶ仲となり男の子が生まれた。
この子は千鶴丸と名付けられたが、平家の管領である祐親は清盛に知られては一大事と、千鶴丸を八重姫からうばい家来に命じて伊東の八代田の川に千鶴丸の腰に石をつけて沈めて殺した。(この処を後に稚児渕と云う)
沈められた千鶴丸の腰の石がとれて、川を下り海へ出て富戸の海岸に着き、ここで釣りをしていた甚之右衛門が見付け、引き上げた処、高価な着物をつけており、これは高貴な御子であると丁重に扱い、遺体をこの石の上に安置し着物をかわかして念ごろに葬ったと云う、これよりこの石を「産衣石(うぶぎいし)」と云うようになり、千鶴丸は若宮八幡・氏神となり、ここの三島神社の御祭神三島大明神の相殿として祀られ、御例祭には鹿島踊りが奉納され、村人の平穏無事と五穀豊穣大漁が祈願され、三島大明神と共に二年に一度神輿の御渡があり、御旅所として此の石に据え、しばし御休息をし千鶴丸にも祈りが捧げられる。」

この悲しい伝説が残る産衣石に置かれた神輿の前で、神楽「剣の舞」が奉納され、続いて鹿島踊りが奉納されている中で宮司により祝詞が奏上されます。

龍宮神社での式典を終えた神輿は、再び三島神社へと帰ってきました(お上り)
お上りでは境内に入ってきてから少し練る程度で、お下りに比べるとすんなりと拝殿へと進んで御霊遷しへと進み、神輿渡御は完了となります。
昔から三島神社と龍宮神社間の渡御だけだったかはわかりませんが、龍宮神社までは比較的近い距離なので「神輿が鳥居を出ると祭りが終わる」と言われているのも納得できます。
宮入での攻防は何度か見たことがありますが、宮出しでの攻防は大変珍しく、しかも無言で突っ走る神輿の姿はここならではと思われます。

見学を終え鳥居から出ると各町の山車も戻って来ました(神輿の後に同行はしていました)

こちらでも重たい万灯の奉納があるようで、入れ替わりで神社へ向かう万灯も見ることができました。
動画もありますので、突進する神輿を是非ご覧ください

三島神社と若宮八幡神社の幟が立てられています。

御霊遷し前の宮神輿


例大祭の式典が拝殿内で行われ、鹿島踊りや神楽「剣の舞」などが奉納された後神輿に御霊を遷されお下り(宮出し)が始まります。ここでも担ぎ手は紙を口に銜えて無言で担ぎます。伊東市内ではこのように紙を銜えながら担ぐとこが多いようです。

境内の最下段の広場に神輿が出ると鳥居に向かって走りながら進みますが、ここでは周りの者が鳥居を潜らせないように止めます。神輿が鳥居を出ると祭りが終わるとの昔からの言い伝えがあるようで、出たい神輿と出させない里人の攻防が30分以上続きます。

砂埃を上げて突進する神輿
しゃぎりが演奏されている中で暴れ回る神輿は、鳥居から逸れて突進する場面も多々ありました。
神輿と里人の意気が一致した時に神輿はようやく鳥居を潜れるとのことで、30分以上の攻防の末鳥居を潜って龍宮神社へと向かいます。

龍宮神社は三島神社から海方面へ向かった先にあり、この境内にある「産衣石」の上に神輿は安置されます。
この産衣石は次の謂れがあります(案内板記載より抜粋)
「永暦1年(1160) 伊豆に流された源頼朝は伊東祐親の三女・八重姫と人目を忍ぶ仲となり男の子が生まれた。
この子は千鶴丸と名付けられたが、平家の管領である祐親は清盛に知られては一大事と、千鶴丸を八重姫からうばい家来に命じて伊東の八代田の川に千鶴丸の腰に石をつけて沈めて殺した。(この処を後に稚児渕と云う)
沈められた千鶴丸の腰の石がとれて、川を下り海へ出て富戸の海岸に着き、ここで釣りをしていた甚之右衛門が見付け、引き上げた処、高価な着物をつけており、これは高貴な御子であると丁重に扱い、遺体をこの石の上に安置し着物をかわかして念ごろに葬ったと云う、これよりこの石を「産衣石(うぶぎいし)」と云うようになり、千鶴丸は若宮八幡・氏神となり、ここの三島神社の御祭神三島大明神の相殿として祀られ、御例祭には鹿島踊りが奉納され、村人の平穏無事と五穀豊穣大漁が祈願され、三島大明神と共に二年に一度神輿の御渡があり、御旅所として此の石に据え、しばし御休息をし千鶴丸にも祈りが捧げられる。」

この悲しい伝説が残る産衣石に置かれた神輿の前で、神楽「剣の舞」が奉納され、続いて鹿島踊りが奉納されている中で宮司により祝詞が奏上されます。

龍宮神社での式典を終えた神輿は、再び三島神社へと帰ってきました(お上り)
お上りでは境内に入ってきてから少し練る程度で、お下りに比べるとすんなりと拝殿へと進んで御霊遷しへと進み、神輿渡御は完了となります。
昔から三島神社と龍宮神社間の渡御だけだったかはわかりませんが、龍宮神社までは比較的近い距離なので「神輿が鳥居を出ると祭りが終わる」と言われているのも納得できます。
宮入での攻防は何度か見たことがありますが、宮出しでの攻防は大変珍しく、しかも無言で突っ走る神輿の姿はここならではと思われます。

見学を終え鳥居から出ると各町の山車も戻って来ました(神輿の後に同行はしていました)

こちらでも重たい万灯の奉納があるようで、入れ替わりで神社へ向かう万灯も見ることができました。
動画もありますので、突進する神輿を是非ご覧ください